5月8日はドイツの終戦記念日?

75年という年月は,多くの人たちは生と死の両方を経験し,すでに消え去っている時の長さ。だから私も含め,世界中のほとんどの人たちにとって第二次世界大戦の記憶はないので,記録などを通した想像力を使いながら考えるしかありません。
日本では1945年8月15日は終戦記念日。定かではありませんが敗戦記念日とは呼ばないはずです。欧州の多くの国々やロシアでは5月8日は戦勝記念日。メディアで見聞きする限り,犠牲者を弔ったり,「繰り返しません」を新たに誓う日というよりも,ドイツを葬った戦勝を忘れないために祝うイベントのような印象を持ちます。

ドイツでもようやく5月8日を記念日とする議論がまとまりつつありますが,記念日案に唯一反対している自称愛国党のAFDにとって,5月8日は解放記念日でも終戦日でもなく,無念と屈辱の敗戦の日ということに間違いないようです。

戦争を知らない子どもたちの子どもたちが大人になる時代。ドイツにももう戦中派はいないけれども,焼け跡派が幼いころのわずかの記憶を語ってくれます。テレビではほぼ毎日どこかの放送局で世界大戦におけるいろいろなテーマでドキュメンタリー番組が放映されていますが,5月8日が近づく時期には特に多くの高齢者による回顧を直に聞くことができます。ただ,何を読んでも,何回ドキュメンタリーフィルムを見ても,当時の状況を実際にはなかなか想像できません。

ドイツでも日本と酷似していた第二次世界大戦末期。1939年,ポーランド侵略でドイツが始めた戦争は3年後のスターリングラードにおける敗北を機に受け身になり始めましたが,ホロコーストは逆に残虐さを増していきます。

そして1945年1月,ヒットラーの最後の演説では,最後の最後までとか,永遠のゲルマンとか,本土決戦1億総玉砕を思わせる言葉が力強く,個人的には身震いするほど気違いじみた,威圧的な狂気の言葉が叫ばれます。

玉砕(玉が美しく砕けるように,名誉や忠義を重んじて,いさぎよく死ぬこと)(Google 辞書)
神国は不滅

大戦末期に限らず,戦争を煽るヒットラーの演説では,愛国心や忠誠という言い回しが繰り返され,ドイツ民族は歴史上の数々の危機を常に生き延びてきたという「ドイチュラントとゲルマンは不滅」も声を枯らして叫ばれ,「玉が美しく砕けるように散る美」意識も多くの人たちの心に響いていただろうと察します。
そしてそこに真の人間の生きる価値や意味があるように訴える「説教」は,ヒットラーやヒズボラや旧日本軍部だけではなく,今でも多かれ少なかれ世界の至るところで撒かれ,多かれ少なかれ人の心を捉えるのはなぜなのだろうか,人間の自然の性なのだろうか,いつも,いつまでも,おそらく私は死ぬまで理解できないでしょう。
信じたくはないけれども,その点,西郷隆盛や三島由紀夫やイスラム主義者の間に違いはないような気がするし,その美意識がいつでも巨大悲劇や巨大不幸を再び生み出す力になっても不思議ではないと思う。
権力者が,人を豊かにするはずのそのような人間の性を意識的に逆用しているのかについては知る由もありませんが。

第一次世界大戦の末期の時期は毎日1万人以上,第二次世界大戦では毎日2万人以上が命を落とし,生き残った人たちも大勢はモラル低下が甚だしかったといいます。
強制収容所という名の集落は欧州全土で約4万,内アウシュヴィッツを代表とする「殺人工場」も千以上,約600万人を組織的に処分したという史上最悪の非人道的な事件の責任をナチスのみに押し付ける議論には疑問が残りますが,ドイツ人も(そして日本人も)戦争を始めて巨大な悲劇を生んだ罪意識よりも被害者意識の方が強かったと認識は間違ってはいないでしょう。

1939年4月29日,ヒットラーはベルリン地下の防空壕に設けられた統括本部でエヴァ・ブラウンと正式に結婚します。そして数時間後の翌日4月30日,まずエヴァ・ブラウンが薬を飲んで即死,その後ヒットラーはピストルで自殺。
ヒットラーが休戦命令も無条件降伏の発令も出すことなく亡くなったため,その後もしばらくベルリンは無法地帯となります。
一般市民は,総統の死のニュースを聞いても,悲しむわけでも喜ぶわけでもなく,多くは無関心だったといいます。
6年間の戦争ですべての人たちは心身疲労困憊し,特にベルリン市民は連邦軍によるベルリン解放よりも,ソ連軍による復讐的な暴力行為や女性への強姦などの無法地帯になる恐怖のほうが大きかったといいます。

特にソビエト赤軍の略奪や強姦については戦後多くの調査記事が書かれながら,事実は分かっていませんでした。1944年から1945年の終戦にかけ,200万人の女性がロシア赤軍によって強姦されたというデータが広く知られていましたが,現在ではドイツ人の女性記者が書いた,ソビエト赤軍による強姦件数は50万,アメリカ兵による強姦も19万件という数字が現実的とされています。また,ドイツ女性だけではなく,ポーランドやハンガリーなど多くの東欧諸国における発生も多かったようです。

関連映画: Anonyma – Überleben, Kampf und Angst

捕虜としてシベリアに送られたドイツ兵は約1千万人,いまだに不明な約120万人の消息の調査は続けられています。東欧諸国で市民たちに殴り殺され,または命からがら歩いて逃げ帰ったドイツ市民,ベルリン解放時にソ連兵やアメリカ兵による強姦を恐れ自殺した数万人の女性,パリではドイツ兵に媚を売っていた女性たちが多くの市民にどつかれて丸刈りにされたりと,終戦を機に欧州全土が一瞬にして変化したけれども,それまでの6年間,欧州を主に世界中で起こっていた大小の何万という知られざる出来事に意味を見出したり,6500万人(内ソ連は2500〜3000万人)の兵士や市民の犠牲に何らかの価値を探すことには無理があると思います。

ニュールンベルク裁判後もホロコーストなどの加害者を追求するドイツ司法も1960年代後半までなかなか進みませんでした。戦後,手のひらを返したかのように新たな権力を握った往年のNSの多くの生き残りが,そのような追求を阻んでいたというのもおそらく事実なのだろうと察します。

また,下の Youtube のように,当時の記録写真やビデオで見られる,ベルリン解放を祝うソ連やアメリカの兵士たちの喜びや平和の再訪に安堵しながら町の瓦礫の片付けに勤しむドイツ女性たちの姿は,実は現実とは異なる演出が多かったことも分かってきました。市民助け合いの連帯精神も無かったわけではないでしょうが,食料の奪い合いや闇取引など,日本の戦後と同様な状況だったと思われます。

1945年7月ごろのベルリン

https://www.youtube.com/watch?v=R5i9k7s9X_A

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