ォルクスワーゲンの最初の工場が作られたブランシュヴァイクを過ぎると,急に乗客が少なくなった。本当は次の小さな町,ヘルムシュテットが西ドイツ最後の駅というか国境なんだけれども,ポーランドやソ連などに行く少数の人たちを除くと,ほとんど西ベルリンが目的地の人たちだ。
ヘルムシュテットを過ぎるとまたすぐに列車は停まる。東ドイツ側の国境の殺伐とした駅。ここで,保安員か国境警察か分からない厳しい表情の東ドイツ人が乗り込んできて,乗客だけではなく,列車自体も入念にチェックする。

30分ぐらい,またはそれ以上停車していただろうか。ようやく発車。列車はゴトゴトゴトとなぜかこれまでよりもゆっくりと走り続ける。窓を開けて東ドイツの景観を臨もうとするのだけれども,線路の両側に延々と続く白樺の林が邪魔して遠くが見えない。ときどき田園が広がるけれども,村や家屋があることさえ,あまり分からない。
ドイツ人の説明によると,「東ドイツはソ連に忠誠を示すために白樺を植樹したんじゃないのかなぁ。ドイツに昔から白樺があったとは思えないけどね」
真実のほどは分からない。
東ドイツ国内の駅で停まることはないので,西ベルリンまで一直線。

当時の列車はすべてコンパートメント。6人掛け,ときには8人掛けのボックスなので列車全体の印象を得ることはむずかしく,ボックス内にひとりだけのこともある。
気が鬱陶しくなる。気のせいか乗客もなぜか声を押し殺したような話し方だ。何時間ぐらい走ったのかあまり記憶にない。3時間ぐらいだったろうか。西ベルリンの西端にある最初の駅,ヴァンゼーを過ぎると急に活気を感じる光景になった。ただ,久方ぶりの(?)町なので活気は感じるけれども,人々が見えないせいか,灰色の古建築の石造の建物が延々と続いているか,雰囲気は暗い。
そして,やっと着いたという感じの,西ドイツ中央駅にあたる動物園駅。中央駅なのに,駅名には「中央」という文字も「ベルリン」という文字もない。西ベルリンに中央駅は無いらしいので,乗り過ごしたら大変だ。次の駅はもう共産圏の東ドイツ側(フリートリッヒ・シュトラッセ駅)なのだ。

降りるときに日本人らしい男性が老婦人の荷物を降ろしてあげていた。老婦人が礼を言うと,彼はただ "Bitte"(ビテ)と言って立ち去っていった。
僕はそれだけで,すごいなぁ。ドイツ語が達者なんだなぁ,と妙に感心した。

有り難いことに友人宅は動物園駅から歩いて行ける場所にあった。
西ベルリンを出るとき,友人が「ドライリンデンに行きさえすれば,みんな西ドイツに行くんだからヒッチハイクは簡単だよ」というので,ヒッチハイクで出ることにした。でも,彼はひとこと付け加えた。「この間,トラックの運転手が撃たれたらしいから気をつけろよ」
怖いことを言うなぁと思っていたら,このトラックの運転手は国境検査を済ませて通り過ぎた後,忘れ物に気づき,トラックを停車させたまま歩いて国境の検問所まで戻ろうしたとき停止命令を受けたのだけれども,なぜかそのまま歩き続けたので撃たれたそうだ。射殺されたのか,軽傷だったかについては記憶がない。

インターネットで当時のドライリンデンの写真を見つけたので,興味がある方はどうぞ。
Zeit Online - DDR Transitstrecke 
ここに,ベルリンの自動車走行テストコースの写真もあった。
オートレース場のように,両側に観客席がある道路の写真。これはナチス時代の,当時,時速270キロという記録を出したテストコースだ。

1979年。本当は来る気がなかった西ベルリンを初めて訪れ,以来,何度も,それも西ベルリンとのトランジット・ルートと呼ばれる4方向のアウトバーンを幾度も,そしてその多くはヒッチハイクで往復した。

transitverkehr nach berlin 1西ドイツと西ベルリンを結んでいたアウトバーンは4方向。北部のハンブルク郊外(Gudow),西方のブラウンシュヴァイク,ハノーファーに続くヘルムシュテット(Helmstedt),南西フランクフルト方面(Herleshausen),そして南はホーフ,ニュールンベルク,ミュンヘンへと続く(Rudolphstein)4つのアウトバーンのみだ。

東ドイツ内で寄り道したり,長時間の休憩をとったりすることはできない。東ドイツ域内への入国時の時刻や同乗者数が記録されているので,通過時間が長かったりすると,どこかに立ち寄ったと疑われてしまうのだ。同乗者が減ったり増えたりしていると,もう即拘留は免れない。

休憩してもいい唯一の場所は,インターショップと呼ばれるドライブイン。このキオスクのようなインターショップで,東ドイツ・マルクを使用することはできない。外貨(西ドイツマルク)獲得の大事な場所らしい。

また,東ドイツ内では走行速度に十分注意しなければならない。許容最大時速は100 km。少しでもオーバーする即,罰金の支払いとなる。記憶が定かであれば,1キロオーバーで10西ドイツ・マルク,10キロ超過すると100西ドイツ・マルクという有無を言わさぬ罰金となる。
僕も一度体験した。といっても拾ってくれたドライバーが支払ったんだけれども,当時の換算で1マルクは80数円だったから8千円。大きな出費だ。
当時は今よりも西ドイツのアウトバーンは速度無制限の区間が多かったので,西ドイツ人にとって時速100キロというのは,かなりのノロノロ運転。

とはいっても,実は東ドイツのアウトバーンは,がたがたで結構大きな穴ぼこも多いので,極めて危ない。
反射で飛んできた石が車に当たってフロントガラスが完全に壊れたこともあった。
そのときは,事故後,西ベルリンまでフロントガラスがない吹きっさらしのオープンカーだった。

東ドイツを通り抜けると,石ころの道から舗装道路に入ったように,急に静かに滑るようになるので,みんな一挙に速度を上げて走り出す。

聞くところによると,西ドイツは東ドイツ内の通過用アウトバーンの使用料および保守費用として多額の金を支払っているのだけれども,保守などほとんど成されないまま,外貨獲得の手段になっているという。

また,このトランジット・アウトバーンで東ドイツの車はあまり見たことがない。車の交通量または数量自体が少なかったのか分からない。

  

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