SCHWELM(シュヴェルム),我が町
ドイツ西部に通称ラインラント(Rheinland)と呼ばれる地域がありますが,地域名というよりも,ライン河沿いの一帯の地域を地域名とは別に指す言葉ですので,Rheinlandは直訳すると「ライン河地域」になり,一帯の住民はラインレンダー(Rheinländer),直訳するとラインランド人ということになります。
となると,ライン河はスイス国境からオランダまで流れる,まさに父なる大河ですから,ラインラントも広大な地域に及ぶと考えられますが,実際にはコブレンツからデュッセルドルフ辺りまでがラインラントと呼ばれ,ライン河からの距離も50 kmぐらいのようです。
前置きが長くなりましたが,我が町シュヴェルム(Schwelm)は,ラインラントにタッチの差で入れない,ちょうど境目の都市,ヴッパータール(Wuppertal)に接する人口2万8千人の小さな町です。
面積からいえば,ノルトライン・ヴェストファーレン州で最も小さな自治体です。
500年以上の歴史があるようですが,100人足らずの集落が徐々に大きくなったようです。すぐ北方にはドルトムンドやエッセンを中心とするルール工業地帯として広く知られるルール地方,南方には穏かなベルギッシュ・ザウワーラントの丘陵地帯が続いているので,有名な観光ルートではありませんが,ヤコブシュトラッセなどのハイキングコースを歩きながら,古い家屋が残っているシュヴェルムには意外と人が訪れます。
町としての歴史は500年でも,この辺りに人が住んでいたのは事実のようです。
1989年に,石器時代のものと思われる遺跡が約300個も発見されたことで,それが証明されました。
シュヴェルム,1722年
ドイツの多くの町には,町を囲んでいた壁(Stadtmauer)がどこかに残っています。
和訳語が見つかりませんが,シュヴェルムにもところどころにシュタットマウアーが残っていますが,町の壁と言っても100メートルも行かない内に反対側の壁が見えるので,いかに小さな集落であったか想像できます。
いずれにせよ,4箇所ある町の門は,ケルンやフランクフルトに続く南側のケルン門,ハーゲン,ドルトムンドに続く東門,バーメンやヴッパータールに続く西側のバーマー門,そしてグリューター門(意味不明)で,1722年の図に基づいて作られた模型があります。
周囲の農家や商売人がやって来て商いを行っていた,教会の横にある市場の広場が町の中心になります。
1722年当時,2教会,3墓地がある町に776人住み,夜回りを行う夜警もいました。当時の服装を装った夜警が定期的に町の子供たちを案内しているので,運がよければ夜警の町の見回りの様子を垣間見ることができます。
木骨家屋(Fachwekhaus: ファッヴェアクハウス)
現在では保存建築物として指定されることが多い木骨家屋ですが,当時(中世以降?)は当たり前。ほとんどの家屋は,高くても屋根裏付きの3階建て。屋根は藁または木端(木の切れ端)で覆われ,道に面した家屋の正面の壁は,むき出しになった太い木骨の支え柱の間に作られた多くの枠の間に四角や半円状の木材が鱗(うろこ)のようにはめられていたり,モルタルで塗られています。
ガラスがない時代の昔の家屋は窓がないか,あってもとても小さいので内部は暗く,狭く,天井も非常に低いです。
筆者も偶然ながら,ドイツで多くの木骨造の宿や家に泊まったことがあり,一時は住んでいましたが,最初のころは感激していた雰囲気も,ときが経つにつれ,天井の低さ,狭さ,そしてなによりも完全には水平でない床に慣れきれず,めまいとまではいかなくてもときどき気分が悪くなりました。
しかし,数年前に泊まったシュトゥットガルト北部の宿も,安いから選んだのに,がっしりとした大きく,年季の入った木骨家屋でびっくりしました。
ですから,ドイツの地方を旅行される際の宿は,ファッヴェアクハウスがお奨めです。安くて雰囲気があると思い,シュヴァルツヴァルト地方の大きな木造宿をアメリカから訪問した友人(日本人)に世話したら感激していました(お世辞でなければ)。
ところで,ご存知のように,多少の違いはあるにしろ,木骨家屋はドイツはもとより,フランスなどにも数多く見られます。
パリで人気の高いマレー地区の建物などもとても似ています。
シュヴェルムにも1-2の通り沿いに20軒ほど,保存建築物指定の木骨家屋が残っていると思われます。
17世紀にはまだ,納屋や厩(うまや)もいたるところにありました。
道は狭く,石畳ではないので,雨が降ると大変だったようです。
町の中には水車がひとつ,周辺には水車もひとつあり,常に上水は供給されていたので,住民はバケツなどを持っていつでも新鮮な水を得ることができました。
集落地ができた頃(西暦900年という古文書あり)に作られた井戸もまだ残っています。
石造家屋はとても少なかったので,裕福な人たちか,外部から来た人たちか,あまのじゃくだけが家作りに石を用いたのかもしれません。
1684年に墓地のあるカトリック教会と学問塾が設けられ,1718年には最初の役場となる2階建ての石造の建物が市場の前に建てられました。
ところが1722年,町の中心にあった1軒の家屋の屋根裏部屋から火災が起こり,中心地帯のほとんどの家屋が焼け落ちてしまいます。
シュヴェルムのユダヤ人とナチス
町の中心から100メートル離れた旧市街,集落地が生まれた場所に1819年,石造と煉瓦が用いられた木骨建築技術によるユダヤ教会が建てられ,後にシュヴェルムだけではなくルール地方一帯に住むユダヤ人が訪れるようになりました。
しかし,ナチスの台頭に伴い,これまで善良な市民として共に過ごしてきたユダヤ人に対し,一般の住民だけではなく,小中学校の生徒たちまで,急激に態度が変わり始めます。
1938年11月,ユダヤ教会は,ナチスによる政治的な圧力でシュヴェルム市に譲渡する指令が出され,解体,そして取り壊されます。
シュヴェルム一帯には250年来,ユダヤ人が住んでいましたが,他の地方と同じくユダヤ人に許された商売は,人が嫌がる,清掃,重労働,屠殺などに限られていたため,最初の頃は精肉業や家畜商売のみ,後に医師や個人事業など多少広がったようです。20世紀に入ったころにはシュヴェルムには,市民に尊敬されるような名士も結構いたにもかかわらず,ナチスのプロパガンダに協調するように市民は急に背をそむけるようになり,最終的にほぼ全てのユダヤ人がシュヴェルムから追い出され,多くは強制収容所に送られました。
シュヴェルムの丘陵には1776年に作られたユダヤ人墓地がありますが,最も古い墓はさらに古い1713年と記されています。
先日,市民ホールで聞いた「シュヴェルムのユダヤ人の足跡」というレクチャーでは,収容所で生き延びたひとりのユダヤ人女性が列車で戻り,身分を隠して昔の住居に住みはじめたけれども,多くの住民が追い出し工作を図り,最終的にシュヴェルムを去らざるを得なかった,というエピソードがありました。
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