東西ドイツを象徴していた都市は東西ベルリン,そしてその東西ベルリンの登録商標のような(ベルリンの)壁。
東西ドイツの統合と共に消えた壁は,再び,自由,民主主義,人民などの勝利というシンボル的な存在になりました。
その後,一時の興奮が収まり,新たな国づくりへのプロセスが進むにつれ現れてきた(特に東ドイツ側の)多様な問題を巡り,30年を経た今でも毎日のように論議が続いています。旧東ドイツの問題や旧東ドイツ人の不満や憤りは,一般的にいわれる,対抗する2つの政治・経済システムから生まれた亀裂の現象だけで説明できるほど単純ではありません。
- 独裁国家体制の下で国家公安局に監視され続けた社会生活
- 共産主義国家の下で物質的な豊かさは望むべくもなかった社会生活
これらから解放されさえすれば生活は良くなる,と考えたいのは人情ですが,人の気持ちは時や環境に応じて変わり続けます。
旧東ドイツの問題の原因として指摘される,1西ドイツ・マルクと1東ドイツ・マルクの為替交換,西ドイツがイニシアチブをとって進めた信託公社の経済政策,失業,旧東西ドイツ地域の給与の格差,社会保障,極右の台頭などなどは,個人的には,現象ではあっても大きな原因ではないと思います。
人間というのは,やっぱり繊細で,感じやすく,傷つきやすい生き物だと思う。また,ひとりでは生きられない社会的な生き物なのに,実際は結構排他的。人間同士の平等においても,自分が不公平だと感じる状況には敏感ですが,少しでも恵まれた位置にいると,それが維持されることを本当は望んでいる自分がいるのです。
突然現実味を帯び,一気にやってきたドイツ統一。そして10年,20年,30年と時が経つ節目になると,メディアがいつも多様な解析や討論を催しながらドキュメンタリーもいろいろ見せてくれるので,新たな知識を得る良い機会です。
旅の途中で会ったドイツ人が住んでいた西ベルリンのアパートを訪ねた1980年,学生たちが討論していたのを思い出します。ドイツ語がちんぷんかんぷんだったので座っていただけなのですが,ときどき訳してくれた話の中で今でも頭に残っているフレーズがあります。
「東西ドイツが再び一緒になれるかどうかについて話しているんだけど,もう考え方や感じ方が離れてしまって,全然別の人間になったから,統合しないほうがいいというか,もう統合に頑張らなくてもいいんじゃないかという意見とぶつかっているんだ。」
定かではありませんが,ちょうどその頃から,西の若い世代を中心にドイツ統一に向けた行動がすでに始まっていたのかもしれません。
そして10年後の1990年のフランクフルト・ブックフェア。日本がテーマ国だったこともあり,筆者も見本市期間,日系企業のブースで働くことになりました。日本人はドイツ人に会うといつも「(ドイツ再統一)おめでとうございます」という言葉をあたたかく投げかけていました。
そんなお祝いムードの中,スピーカーからギュンター・グラスのスピーチが聞こえてきたのです。
彼には浮き浮きしたお祝いムードなど全くなく,「東と西の統一は急がないほうがいい。時間をかけてゆっくりとゆっくりと進めたほうがいい。心が違う人たちが一緒になるためには時間が必要なんですがね。なぜか急ぎすぎている。」というような趣旨だったと記憶しています。
しかし,東西ドイツ統一を成し遂げた政治家として歴史に名を残すことしか頭にないコール首相に,そのような気遣いや繊細さを望むべくもありません。
最近になって,旧ドイツ信託公社の理事の「今になって思えば間違いも結構あった」という発言や,なぜ信託公社はコール首相にもっと時間が必要だとひとこと言えなかったのだろうか,という記事を目にしたりします。
話が飛びますが,筆者は「政治」というのが理解できないだけではなく,自慢ではありませんが意味さえ知りません。
友人は先日も,「やっぱり一番大事且つ力があるのは政治やで」と強調していたので,毎日毎日新聞の半分以上が政治経済の記事で埋まっていることを多くの人たちは当然だと思っているかもしれませんが,私は未だになぜか納得できない。
ところで,バイエルン州の議会議員の宣誓書のような文書を少し読んだことがあります。政治家の心構えというか遵守すべき事項が並んでいたのですが,一番最初に「政治家たるもの,まず良心に従った行動をとるべし」と書いてあるのです。私が知らないだけで,それは当たり前,どこでも同じ,とおっしゃる方がいるかもしれませんが,実に驚きました。
コール首相に限らず,この人は良心に沿った行動をとっているという政治家にお目にかかったことがないのです。
自分では理性や知識に沿って正しい行動をしているつもりなのかもしれません。いずれにしても,ドイツ再統一におけるコール首相は,自分の名声・権力は,ロシア・欧米強国に認められるドイツ統一を実現し,東ドイツ人の物質的な豊かさへの欲求を満たせば完璧,と踏んでいたことは間違いないでしょう。
しかし,ドイツ統一達成の翌年,旧東ドイツで生卵を投げつけられたとき,理由は全く理解できなかったはずです。
ベルリンの壁も崩れ,東ドイツも崩壊した1989年。思想犯として拘留させられていた刑務所から解放された人たちがいる一方で,国家公安局の記録書の隠滅・破棄に忙しい人たち,4人に1人は国家公安局の協力者といわれながら,ほとんどの人たちが「自分たちは自由を求めていた被害者」と叫び始めたのも事実のような気がします。
物質の豊かさよりも自由な民主主義を得たことが嬉しいといいながら,供給されたドイツマルクを手に真っ先に飛び込んだ西ベルリンのデパートでの狂気的な買い物歓喜。
翌日からの学校では,これまでの教科内容や指導要領が否定され,全く変わってしまい,困惑する先生たち。などなどなど・・・
つまり,抜本的な改革は一挙に進んでも,人々の微妙な心情を納得させる細かい問題の解決は遅々として進まず,表面的には良き人間として振舞っても,自己中心的な面も持ち合わせる,当たり前と言えば当たり前の普通の人たちがあふれた社会は混乱を続けたのです。
先日のテューリンゲン州の選挙では極右政党が大きく伸びました。同時に,旧東ドイツでは国民党同然だった左翼も一時の不人気を吹き飛ばすかのように票を伸ばしましたが,キリスト教連盟と社会党は最悪の結果でした。
その極右政党(AfD)の党首でガウラントという人がいるのですが,こう述べていたことがあります。
「私たちは何も特別なことを望んでいるわけではないんですよ。親が住んでいた時代と同じような社会に住みたいのです。隣の家にボアテン(ドイツ生まれの黒人のプロサッカー選手)みたいな人が住んでいたら嫌だしね。」
まぁ,これだけ聞けば,別に人種差別として角をたてることもないかもしれませんが,その後にこう続いたのです。
「あなたたちもそうでしょう?(黒人が隣人だったら嫌でしょう,という意)」
自分が,こういう人とは付き合いたくない,と思うのは自由ですが,他人もそうだろうと思うのは想像の飛躍以上に,人間を知らなさ過ぎます。
ただ,人種間,特に有色人種との衝突は,解決方法があるのだろうかと時々絶望的になるほど続いているので,やっぱり分かれていたほうが平和な社会になるかも,と思うことがあるのも事実です。いずれにしても,肌の色などで判断しない社会が理想的ですが,多くの人間は偏見を抱え,良い方向に向かっているとしても速度は遅いので,異なった人たちとの融合はゆっくりと進めるのが無難だと思います。
百万人単位の難民を一挙に受け入れたメルケル首相は,ドイツ人の精神的な内乱を呼ぶリスク覚悟で決心をしたのでしょうか?
ドイツ人の友人のお母さんは,大人になって初めて黒人を見たときは本当にびっくり仰天したそうです。
現在,アフリカから着いた多くの難民がイタリアに留まっていますが,先日のテレビのシーンは印象的でした。
南イタリアに住む若いカップルは,両親を地中海で失った難民の幼い女の子を引き取り,養子にしたそうです。しかし,カメラを子どもに向けると「ダメ,子どもは映さないでください」と言うのです。いわく,引き取った最初の頃は周りの人たちは暖かかったけれども,徐々にいじめられるようになったので,あらゆるリスクからこの子を守り続けなければならないと思っている,と。
旧東ドイツの状況を書くつもりが,人種のほうに流れてしまいました。
以前は,東のほうに旅行したり,住んだりしたら,いつも気をつけなきゃいけないだろうな,と恐れていましたが,最近では,旧東ドイツ地域を廻り,実際に現地の人たちから話を聞きたいと思うようになりました。いつか実現したいものです。
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